符号化ってユースフル

最近、自宅からはてなにログインできない。ホワイ? 榎本俊二に関する考察もまだ雑多だから更新は難しいのだけれど。

先日書店に行って、小谷野敦の本を立ち読みして、今度買おうと表紙を見たら、なぜかイラストが花くまゆうさくのものだった。確かにかまボイラーのジャケ絵とかも描いてるけどさあ、なぜ小谷野の本で描いてるのか。心底笑えたものである。
ここで着見したいのが、アカデミスト(だよね小谷野は)の著作の表紙が、『ガロ』出身のヘタウママンガ家によって描かれているのが「面白い」ことである。あくまで感動の点は「面白い」という事実そのもの。
最近ずーっと考えているが、ある程度何かの分野に明るい人たちは、作品や作家など、個々の構成要素を一種の符号として扱うことが出来る。例えばぼくは、須藤真澄とか『ヨコハマ買い出し紀行』を好むという人物に『群青学舎』を勧めることがあった。これは絵柄の繊細さとか作品のノスタルジックな雰囲気を照らし合わせて相似を見つけたためである。小谷野の本に関して言えば、なぜ『もてない男』が売れて『恋愛の超克』とか書いている人物の著作に、あのタッチの、ハゲとアフロで有名な花くまゆうさくなのか、とミスマッチを確認できるから「面白い」のだ。
もっと簡単な構図であれば「ピクシーズナンバガ」「冬目景沙村広明」など、あるバンドの影響を公言しているバンド、経験を同じくするマンガ家を結びついたものとして認識すること、これも作家・作品の符号化である。ぼくが最近よく言う「バンプ聴くならシロップ聴くよ」「シロップ聴くならバーガー聴くよ」=「BURGER NUDSsyrup16gBUMP OF CHICKEN」なる構図もまた然りなのである。似た要素を見つけることでこの3バンドを同種のものとして認識して、その中で個人的順位を決めて、混沌としがちな「趣味」というものを確実にしようとするわけなのだ。

符号化の意義として、自分の中での整理に役立つことが挙がる。安くない金を払ってものを買う人物、それだけの欲求がある人物は、それ以前の体験に基づいて購入に踏み切る。これだけはどんなに狭い地点を拡大しても変わらない構図だと思う。ぼくは『西洋骨董洋菓子店』が面白かったから『フラワー・オブ・ライフ』も『きのう何食べた?』も買ったのであり、ライブがカッコよかったためにブラッドサースティ・ブッチャーズのTシャツを買ったのである。
このとき既にぼくたちの意識には、先立っての面白いもの・自分にとって有益なものというのがあって、これを判断の基準にしている。これは消費活動の中で、自分の財力を効率的に行使する最も頼れる技術なのである。
けれど、ぼくが「人間ってすごいなあ」と思うのは、その符号を使って、簡潔なコミュニケーションがとれるところである。同じ体験をした人物と体験について話し合うのは、すごく楽しいけれど、その場で簡潔にコミュニケート出来るのは、言ってしまえば当然なのである。符号化された体験同士をリンクさせてコミュニケート出来る――「君はあの映画が好きだから、きっとあのマンガも好きだよ」とか言える――というのは、そういうレベルから脱却さえしている。別種の体験の一部同士を、同じ類の体験だと気づくまで洞察することが出来る、ということだからである。
ネット・レビューを参考にするとき、個々のレビューの信憑性を判断するのが一種の楽しみでもあるのだけれど(恋空の話題を出すヤツは粘りが出るまで殴る)、匿名的・半匿名的なネット社会では、ツラが見えないだけあって、やはり明易なコミュニケーションは難しい。符合照会でのコミュニケーションを発展させるのは、これからの一つの方策なんじゃないか、と思う朝である。

ぼくは、『ラブロマ』を好きな人はサケロックとかキャプテンストライダムを聴けるんじゃないかな、とぼやーっと思ったりしている。もうここまでくると易々と言葉に出来ないが、まあそういうことである。

蔑視線恥丘号

アニメファンが声優の顔出し番組に(というか、自分たちのフィールドのタレントを、他のフィールドに引きずり出す行為に)神経質な理由とは?
単に「何いまさらこっちに手ぇ出してきてんだよ、俺たちの〜〜にちょっかい出すんじゃねーよ」という排他もあるだろうが、アニオタのような立場の人間たちからしてみれば、こういうアングリーメントって必要なんじゃないかなあと思う。
サブカルはある程度の蔑視を受けて然るべき領域であり、そちら側の受けを狙ったモノ(特にテレビ番組)というのは、フィーチャーとして機能せず、むしろ浅慮によってファンの神経を逆撫でするだけの内容であることが多い。もちろんアニメ業界に限ったことではない。インディーズ・ロック・シーンとかにも見られる現象である。CS局のなかでも比較的メジャーな番組なんかで、知識が未熟なパーソナリティが、テレビタレントでもないバンドマンに対し的外れな質問をして場をドロドロにしてしまう例などいくつも見てきた。

ファンはこれを受けて「〜〜を何だと思ってるんだ!」と憤慨するわけだが、この憤慨こそがファンの庇護欲を誘い、対象を後押ししようと意識するようになるところは確かにあると思う。「〜〜をあんな扱いしやがって……」消費者のレベルにおいては、こういう意識の成立ってセールスに直結するんじゃないだろうか。もしやテレビはそういう計算に基づいてプログラムを組んでいるのか?
と思ったが、「ファンを憤慨させる」即ち「対象にストレスをかけていると思しい」わけだから、狙ってやっていたらそれはそれで問題である。テレビなのだから、打合せが前提としてあって……とも考えた。こういう懐疑を絶対に否定できないから、テレビって恐い。

無言の誘致

ルイス・ブニュエルの『昼顔』を観る。
映画としてものすごく良かったが、とりあえず、エロについて考えさせられた。
前置きとしてあらすじを述べる。
美しき若妻・セヴリーヌは夫と円満な関係を築きながらも彼とのセックスに踏み切れない。しかし、彼や彼の友人と激しく関係することを夢想している。彼女は激情の解決を求めて娼館へと足を向けることとなる……。
官能の表現において全く露わな乳房を映さないのであった。裸体の前面は全くフレームに入ることが無かった。ぼくがこの事実に気付いたこと自体、ひとがセックスとして求める要素が乳房や性器に集中していることの証明となりうる。尻に全てを見出すというタイプはかなり少ないだろうと思う。「背中しかいらない」というタイプの人がいたら、ばっちり時間を設けて話してみたいぐらいだ。

「言わないで言う」ことはすごくイヤラシイ。見事だと思う。常に下着が守り、それが解かれれば映されもしなくなる乳房。見えない、しかし晒されているという認識が齎す官能の表現にやられた。明言化は必ずしも分かりやすくない。人間の感情の表出を撮るのに顔だけを追う必要は無くて、それを指先や脚に求めることだって出来る。努力と工夫さえあれば。何たって、登場人物の全ての感情を指先に躍らせた演出を見てしまったわけだからそういうことが言える。

口吻闘争

抽象的な意味合いしか設定しないまま特定の単語を使い続けることが出来る能力ってスゴイ。

ぼくが好む話題がそっちに寄りがちだからか、ぼくとの会話の受け手は「哲学的」「文学的」という言葉を使う例が多い。それを聞く度、腑に落ちぬものを感じる。人々はそうやって形容を行うが、哲学って何? 文学って何? という余りに難しい問いに対する答えを持たないまま「哲学的」「文学的」と言っている気がする。だって文学部通ってるけどぼく答えられない。「深い」なんかもそうである。「あいつの話は深い」と紹介されても、何だかことが分からない。話が深い? 穴が深いならまだしも。

……どうにもぼくの文章が的外れである。ええと何が言いたいかというと。今は過剰な演出が受ける世の中だと思う。映像ならば、アップで人物の表情を押さえてれば受けるしカメラをぶん回すとスピード感があるといわれる。意味が無くとも計算が無くともショッキングな配色とフレーズがあればコマーシャル・メッセージになり得ている、気がする。
ことばの意味をバッチリ捉えていなくても「こう言や分かるだろ」というレベルでことばを扱うことに慣れている気がする。いや、ことばというのはそもそもそういうツールなのだが「便利だから」という理由だけで短絡化させるのは面白くない。今こそ恭しいことばを使いまくるべきだ。上品な口喧嘩がしたい!

ノイズ

ノイズというものが好きで、よくギターのフィードバック・ノイズが効いている音楽を聴くし、自分でもシンセを使ってギンギンした音を出したりする。
自分では認識しきれないものと接するのが大好きで、映画でも、一秒かけないようなカットバック(一番好きなのは『CURE』のカットバック)なんかが好きで、マンガでもそういう表現を用いる作家が好きである。それが表出しているのが安永知澄の『白い本』であったり、高野文子の『バスで四時に』である。
たぶんノイズというものをそうやって捉えているんだろうな、と自覚していたが、そうでもないらしい。ノイズはノイズとして独立させて、好んでいるのだ。

起源、発出の仕方は同じはずなのに、なぜギター・ノイズとスクラッチでは、あれほど表現と衝撃が異なるのか。とにかくフィードバックは耳に甘い。ソニック・ユースゆら帝羅針盤なんかを聴いていると、その甘さが耳から離れない。
表現の枠から逸脱したものだから、破壊力があるのは納得出来る。「本来出るはずではない音」「本来出してはいけない音」を表現に織り込んでいることが素晴らしいことも分かる。
それを差し引いてもノイズが魅力的に聴こえるのは、自分にはまり込むものだからだろう。

爪の垢の二番煎じ

何かに憧れてものをつくる、というのは、ぼくたちの世代では逃れられない前提としてあって、現代において創作をしようとすると剽窃の危険性が自動的に発生する。
これは、先駆者が既にあることによって作品を世に出すことが困難になる、ということでもあるけれど、何より恐ろしいのは、「自分がやりたい事が既に人にやられている」と思うことでないか。自分の中にあるものを具現化するタイプの表現者は、今だいぶ危険に晒されている気がする。

加えて。ウェブ創作の発達は、一種の濾過だと思っている。山田詠美が「作家というのは、表現すること自体に飽き足らず、巨大な自己顕示欲を持ち続ける格好の悪い生き物だ」ということを書いていたが、まさにその通りだと思う。しかし人格として、衆目に触れる状態を作り出した時点で満足する人間というのも多くいる。シーンに登場出来る実力や才覚を持ちながら、作品をウェブにアップした時点で顕示欲を解消してしまう人間というのは絶対に存在している。そういう存在の救済として、最近ではウェブマンガの書籍化なんかが甚だしいけど、大体においてそういう作品は、既に自分のウェブスペースのために「均した」作品であって、他の作品とは根本を異にしている。
ウェブでの「一応の発表」には満足出来ず、表現への欲求を保ち続ける人間が現代での表現活動を許されているんじゃないかしら。

えも

ぶわぁっ、と曲が自分の周りをくるむ音楽が好きで、ビョークの一部の楽曲とか、ゆらゆら帝国の「無い!!!」などがその一例。そういうものを聴いていると、「自分は今この音楽に撫ぜられている!」と実感出来て気持ちよい。V∞REDOMSのパフォーマンスも似ていると言える。彼らのパフォーマンスは、生で観ると、何かに憑かれる。躍らずにはいられない。
かえって、一点をバチコーンと貫くような音楽も大好き。最近のロックバンドというのは、上記のように、広げたりだとか、(はっぴいえんどや、最近で言うとSPECIAL OTHERSAPOGEEなんかはそうじゃないのかと思うのだが)何かを建設して美しい音楽イメージを作り上げたり、というのではなく、エネルギーを集中させてブチ抜くことをしがちだと思う。そういうのはウマに合う。
NUMBER GIRLの楽曲にそれを見出している。『タッチ』とか『はいから狂い』『I don't know』なんか。
最近聴いているノーウェーブなんかは、ただ生のエネルギーを、少しだけ力をこめて自分たちの中に丸め込んでいるような印象を受ける。そのストイックが響く。