最近聴いているもの

イースタンユース『其処カラ何ガ見エルカ』
クラムボン『Musical』
kukl『The Eyes』
ゆらゆら帝国『Sweet Spot』
凛として時雨『Inspiration is DEAD』

イースタンはどうしてあんなに格好がいいんだろう。本気だからだろうか。
本気になった人間と向き合う恐さというのがある。正体をなくしている人もそうだし、陶酔しているミュージシャンを生で見るのもそうだ。本気の人間とは分かり合うことが出来ない。その人間は本気になることで、規範とか限界を無視しているので、自分の常識を振りかざしてもアプローチが出来ないのだ。
kuklが見せるシャウトにもそれが言える。このバンドは、民俗楽器と電子ビートなどを組み合わせた前衛バンドなのだが、ヴォーカルがなんともかんとも、あのビョークである。ぼくは様々な音楽を聴いてはきたが、あれほど心が騒ぐシャウトは初めて聴いた。人を不安にさせる叫びなのだ。ジャック・ニコルソンの笑顔に通じるものがある。すごく分かりやすい狂気の表現だ。あのシャウトを聴くと、世界中のロック・ヴォーカルのシャウトが、いかに整って聴きやすくされているか分かる。

ゆら帝と時雨には相似があると思う。二組とも、3ピースという強度の限界に迫るバンドである。ガリガリしたギターサウンドと、拡散するギターの魅力を収集するベース。ドラムがその隙間を埋める。二組ともそういうバンドである。
ゆら帝の最近の作は、新譜『空洞です』『美しい』などでも分かるけれど、すごく広がる。『発光体』とか『つきぬけた』のように直線的にカッコいい曲とは違う。そういった曲がとても硬質的で、固体として耳に届くように、最近の作品は液体のように耳に届く。さーっと広がって、自分の中に満遍なくそれが満ちる感触。たまらなく気色悪く、クセになる。
時雨は、以前のようにハイ・テクニックで鋭角なサウンドを保ってはいるが、少しどこか丸くなってしまったような、こなれてきてしまったような気がする。鬱屈とか青春とかを、極めてネガティブなイメージで表現するタイプのバンドは、最近多い。そういうバンドが、ネガ特有の痛々しさを保つ、というのは難しい。ネガティブな人というのは、やっぱりどこかで自己省察してしまうのだ。ただ痛々しさを改善すると、そこに惹かれていたファンは引いてしまうわけで、これもまた難しい。

ぼくは、ギターをガリガリいわせる音楽や、ニューウェーブ的でノイジーな音楽を好む。
それでもやっぱり、たまには非の打ち所のないポップスとか、ポップの雰囲気を自然に帯びているサウンドを聴きたくなるわけで、スピッツや、クラムボンを聴く。
クラムボンはたまらない。拍子なんかとても気持ち悪くて、リズム隊はすごくプログレッシブなのだけれど、異常に気持ちいい。アガる・アゲる、という言葉がある。主に音楽なんかを聴いてハイになる感覚のことである。ぼくはガリガリした音楽やノイズによってアガるが、時として、すごく穏やかなのに心が騒ぐ、そういうミュージシャンに出会う。スピッツであり、荒井由実であり、スーパーカーであり、クラムボンである。