ジュブナイル・ジュブナイル

猫十字社の『小さなお茶会』で泣きそうになるハタチ過ぎの男子学生ほど気持ちの悪いものはそう無いだろう。指すところつまりぼくである。みんな罵倒すればいいんだ! (それはそれでやぶさかでもない)。

昔のことというのは、ひとたび思い出すと堰を切ったようにいちどきに回想される。『小さなお茶会』によってかなりショクハツされたところがあるので、ちょっと殴り書きしたい。

ぼくが記憶に持っている最古のビジョンというのは、戦隊ヒーローの見え切り(メンバー全員がワンフレームに収まっている)画で、さすがに夢か現か定かでない。赤地を背負って上から下に縦へ歴代のヒーローたちが流れていく様は結構シュールで、今でも朧に思い出せる。その頃、ぼくは一家で母方の祖父母の宅に住んでいて、間仕切りのふすまを開いて和室と洋間をブチ抜いてねぐらとして、両親と兄と使っていた。やすっちくニスが塗られた新しいタンスがあって、兄が張ったチェンジマンのステッカー、それと『がんばれゴエモン』(たぶんファミコン第一作目の)のステッカーが今でも貼られている。そこには日頃着る物が収まっているが隣には年季の入ったタンスが二さおあって、祖母や母の姉妹の着物が納まっている。結局その家には四歳になるまで居たのだが、部屋に仏壇があるのもあいまってか、古いタンスには今でも畏怖の念を感じる。ただ、ほのかなナフタリンの匂いだけは昔も今も好きなままだ。「薬くささ」が好きなのはここから来ているんだろうか。

当時の風呂の蓋は、蛇腹のようになっていてバタバタと巻いたり開いたりして使う代物だった。ぼくは風呂に入ると必ず、自分を中心にそいつを巻き込んで閉じ篭る遊びをしていた。ただでさえ閉塞的な風呂場という空間の中で、さらにもう一枚の幕を使ってより小さく狭量な存在になっていくのは何だか心地よかった。思えば押入れに入ったりクローゼットに入ったり、新居ではソファと壁の間に潜り込んだり、狭いところに入るのがとにかく好きだった、というか今でも好きである。
今思うと内破・インプロージョンへの憧れというのはこの辺から育まれていて、丹田を中核にしてインプロージョンして、ビッグクランチの要領でマイナスの質量になれたらいいな、ということをずっと夢想している。人と話したり、何か創作によって主題を世に明らかにしようと思うとき、インプロージョンではやっていけなくて「神経を背中から割り出し曼陀羅の模様を作り上げて、外界をもっと濃密に認識したい!」と熱烈に外向的になるのだが、スコーンと自分の思考のスパイラルに陥っていくときとか詩を書くときはインプロージョンの気持ちになる。

その家の階段は一段一段に手すりとしての細い柱が打たれていて、年季の入った接続部品は指で回せるほど緩くなっていた(これも今なおそのまま)。柱という部位は建物を支えるものであるから、外れてしまえば大事になるのだろうと思っていた。手遊びが好きだったぼくもその部品ばかりには徒に触るまいと決めていた。当時の自分の手の大きさほどしかない部品に、破滅の影を本気で見出していたのだ。

家の前の空き地に丸太(と呼べるほど綺麗ではない、伐ったものを野放図にしておいたようなもの)があって、初めてそいつを見たときから、ぼくにはそいつが戦隊ヒーローが手持ちの武器を合体させてこしらえる、非ロボ戦の決着をつける大砲にしか見えなかった。気が向くとそいつの傍らに立ち、そいつが切断面を向ける家を砲撃する妄想にふけった(その家は伯母夫婦の宅なのだが)。切断面は分かれた根の面影をありありと残していて「恐らく砲撃は散開して広域を攻撃するだろう」と思っていた。
この木は、今は無い。

幼稚園に通い始めたのは四歳のときだった。ぼくは三歳になる頃にはひらがなの読み書きはほぼ完璧に出来ていたらしく(即ち当時がぼくの人生の中で最も華やかなりし時だったといえる)、勉強に難儀した覚えも無ければ、習い事もやっていなかったのでこれまた苦労した覚えが無い。ただ火曜日の給食は決まってパン食であったことだけはハッキリ覚えている。当時から抜けていたぼくはサンドイッチを横から見ても何が入っているか分からなかった。その中にまったく食べなれない、子供なりに歯をおもんぱかってしまうほど濃密に甘く、鼻に引っかかる小気味よい香りをするものが入っていた。今思えば何のことは無いピーナッツ・クリームに他ならないが、見も知らぬものにあそこまで感動できたのは一大事で、火曜日は愛すべき日となった。毎週ピーナッツ・クリームのサンドイッチが出た訳ではないが、既にピーナッツ・クリームは火曜日を支配していて、イチゴジャムもハムと業務用チーズも皆、舌にいとおしかった。今でも、組全体が無意味にテラスに出て昼食にありついた火曜日を覚えている。たぶん春過ぎだったのだろう温順な日だった。青空とピーナッツ・クリームは、すこぶる相性が良いと知った。

回想にはエネルギーが要る。そろそろ眠くなってきたのでキリ良く幼稚園の思い出で区切ってみたい。他にも迷宮と見まがった下駄箱の茫漠とした感じとか、二階にある体育館へ一階から直接上がる螺旋階段の質感とか思い出せるものは色々あるけどキリがない。

まあこうして年中さんだったときはたんぽぽ組、年長さんだったときはほし組(タカラヅカみたいだ)の一員として何とかやっていったぼくは卒園時、自治会館での懇親会、まあ園児・保護者・先生入り乱れての謝恩会みたいなものに出席した。今思えば、組ごとに別々にやっていたんだろう。そこで受け持ちの先生に言われた、いわゆる「贈る言葉」というやつが今でも頭に残っている。五歳になりたてのアタマでよく記憶したもんだと思う。
「(名前)君、本当は何でも出来るんだから……」
涙を殺して搾り出された言葉はぼくの涙腺を打ったが、一応感涙には至らなかった。意味が分からなかったから、かもしれない。
当時のぼく(といっても本質的なところを変革できないまま中学ぐらいまで過ごすのだが)は、歳の割に想像力が逞しかったせいか、自分が現実世界で何か成し遂げたり可能性を広げたりすることに意欲を持てなかった。親の買い物に付き合わされてデパートやなんかに行ったときは、退屈しのぎに妄想していたぐらいだった――店の鏡には吸い込まれる危険があると信じていたし、配電盤を開ける錠を回すことが出来れば隠し部屋に行けると思っていた。
川が流れるのと同じ要領で、幼稚園から小学校に上がるものだと思っていた。これは誰もがそうなのか? とにかく物事の始まりや終わりというものにぼくは無頓着で、そういうメカニズムを理解することは困難だし面白くないと思っていた。ただ初めて見た「先生」の涙は何やら強烈極まっていて、とにかく「もう幼稚園には行くことが出来ないのだ」と実感して、これがものの終わりというものかと思った。
後に、小学校の生活の教科書だか道徳の教科書に「小学校生活で悩みがあって、幼稚園に相談に行ったら受け持ちの先生がまだいらして親身になってくれた」とかいう話を見つけて「信じらんねー、どうなってんだこいつのアタマ」と思うことになった。
また母の話によると、小六のときの担任に「頭の回転は速いのだが、それが大事なところに一切向かない」と評されていたらしく、小学校六年間で成長があまりに乏しかったことが窺える……。

掘り出すと色々あるもんである。より細かくて雑多なこと、たとえば幼稚園児であった頃、ゲームショップの街頭プレイでファミコンの『タルるーとくん』(無印)を全クリしているやつに出くわしたこと、スーパーの家電売り場でTVに映る『ダイ大』のアニメ、ちょうどアバン先生がメガンテをかけるシーンを観ていてそばに立っているはずの兄に話しかけようとしたら見知らぬ子だったこと、小学校の校庭に岩を据えた小山があって、その中に『エスパークス』の戦艦そっくりの岩があることまで覚えていて、中学・高校で習った数学の公式なんて大体忘れてるんだから、ぼくの脳もよく出来ている。とにかくこんなにスパークさせてくる『小さなお茶会』は今年下半期始まって以来のメガヒットであり、ついに揃った『茄子』全巻に追従する感動を生んでくれており、今、ぼくは眠いのだが、文庫の二巻を手繰らずにはおれぬ。これで昼間『連合艦隊司令長官 山本五十六』観て「うーん三船敏郎はかっこいいなかに愛嬌があるんだよな」とか感じ入ってるんだから落差に本人がついていけない。