よくある話で

今、作家はどれほど諧謔的/批判的であるべきか、ということについて、最近考えている。
物語が飽和している世の中で、未到達地点を探すことは甚だ難しい。だからこそぼくは、パクらないように色々な作品を鑑賞しているところがある。「莫大な量のアーカイヴスがあるのだから、何がしかのマニアにならなければ面白くない」という考えもまたある。
その飽和の中で清新な真空を作り出すような、そういうあたらしいものの創造は、常に誰もが「狙って」いなくてはならない。ただ、創作者の側が、意図して諧謔/批判/脱構築に走る、というか走らざるを得ない状況はやはりいびつであり、かたにちからバット装備状態といえる。

小川洋子は「書かれたことの無い物語を書こうという気持ちと、このような作品を書いてみようという気持ちの両方を持つことを否定してはならない」ということを言っていて、確かにぼくの中にもオリジンになりたいという欲求と、完全なミメシスを実現させたいという欲求がある。
しかし、ダダとかレディ・メイドなんかのような、批判精神を具現化したかのようなアブストラクトな表現が発展して(そして沈静化して)しまった以上、起源・模倣という最も根本的・原理的だからこそ実用的でもある概念――というより方策に、頼ってばかりもいられないのだろうか。
かつて作られた「正道」と、そこからの逆行で生まれる表現。つまり一本の直線の方向A、方向Bを、とりあえず均されてしまっているわけだが、そこから、まことにあたらしいものをやろうとする時、重要になってくるには、やはり個性しかない。それだけしか不可侵領域は残されてはいない。
ここでいう個性とは、ぼくは現実感覚だろうと思っている。無論全ての芸術において主観的描写というのは重視されてきた点であり、何を今更、とも思えるが、ここまで時代に絶望できるのが現代なのだから、自分なりの感官を磨き上げて、出来る限りの質量の絶望を感覚していき、それを創作と連結させられれば……なあ。

(久しぶりに書いてみると、やはり結構ありふれた論になるものです。これからも頑張って生きていきます)