がんばれひひょうか

ぼくは「芸術性が高い」というフレーズで分かりやすく説明される作品が好きである、が、この表現が的を射たものだとは、あまり思えない。
作者ごとに表現のコードというのは存在して、一つ一つの表現が「理解しやすい」とか「テーマ自体が遍在的でない」とかというだけで「芸術性」が高いの低いのとか言うのは、結局判然としない領域の明言化を諦めているだけだ。何がどう芸術的と呼ぶに相応しい、と言える人でないと「芸術性が……」「文学性が……」という言葉は使うべきではない。

それが本筋ではなくてですね。
いわゆる「芸術性が高い」ものと真逆のものとは? それは、ギャグとしてのメタ視点じゃなかろうか、と最近考えている。
芸術というのは、作者による偏執が個性のひとつといえる。偏執的に構成された作品によって、絶対美やら、婉曲的なメッセージを作り出す。そこには余剰物を無くす意識が生まれ、無駄なものがない状態が出来上がる。
ギャグとしてのメタ視点……、たとえば『ヒーロー戦記』において、無駄話を延々と続けるモグラ男に対し、光太郎が「ROM容量のことを考えろ!」と怒る、というシーンがある。一シーンの一つの笑いのために、キャラクターを物語世界から一時的に脱出させるこの手法は「プレイヤーと製作者」という概念だけを活かして、物語という規範のカタマリを無視して生まれる演出である。
他にも、『半熟英雄』『ライブアライブ』などには、他作品のキャラクターをコメディックに変化させ、全く違うキャラクター性を構築する・典型的なRPGのシナリオのただ一部を典型から逸脱させることで、新しい印象のシナリオを生み出す、という手法が見られる。

実はこういう遊び心というのは、ハイカルチャーは持てないものなのではないか。持てたとして、ひとりのアウトローがためしにやってみる、というレベルの表現に過ぎないのではないだろうか。
今でいうクラシック音楽。ああいう音楽の作曲家とか、1800年代までの画家なんかは(まだ「文化の衰退」という想像を、実際のものとしてシミュレートできないから)全く新しいもの・前衛的なものを作ろうとする。その時、バカげた形でのパロディなどというのは思いもつかないだろう。
例がずいぶん極端だが、現代の教科書に載るような人物を引き合いに出すまでもなく、ハイカルでは芸術性の追求はできても、メタ視点ギャグはできなかろうと思う。
勿論、メタ視点こそが批評的なパラダイムから発生したものだと思う。変に概念が飽和していなかった過去においては、そもそも不要な意識だったんだろう。だからこそ、今のように概念が増えてくるとそういう手法が可能になり、かつ評価もされる。今、ゲームは、メディアとして評価されるようになり、整いすぎたせいでメタ的アプローチを忘れかけている。別に、芸術のように、個人的な理想を追求していったり社会を変革させようというのが主題としてあるわけではないのがゲームであり、大多数の人間によってしか作られないのが現代のゲーム( 『洞窟物語』みたいな例もあるけど)なのだから芸術への転化なども望めない。メタ的アプローチは、持ち続けていい表現方法だと思う。

しかし、ここまで批評意識が社会の中で必要になったり高価値になったりすると、芸術性の居場所はこれからやっぱりガンガン減っていくんだなあ。こんなところからも、現代において芸術をやることの困難を発見してしまった。ちくしょう。