口吻闘争

抽象的な意味合いしか設定しないまま特定の単語を使い続けることが出来る能力ってスゴイ。

ぼくが好む話題がそっちに寄りがちだからか、ぼくとの会話の受け手は「哲学的」「文学的」という言葉を使う例が多い。それを聞く度、腑に落ちぬものを感じる。人々はそうやって形容を行うが、哲学って何? 文学って何? という余りに難しい問いに対する答えを持たないまま「哲学的」「文学的」と言っている気がする。だって文学部通ってるけどぼく答えられない。「深い」なんかもそうである。「あいつの話は深い」と紹介されても、何だかことが分からない。話が深い? 穴が深いならまだしも。

……どうにもぼくの文章が的外れである。ええと何が言いたいかというと。今は過剰な演出が受ける世の中だと思う。映像ならば、アップで人物の表情を押さえてれば受けるしカメラをぶん回すとスピード感があるといわれる。意味が無くとも計算が無くともショッキングな配色とフレーズがあればコマーシャル・メッセージになり得ている、気がする。
ことばの意味をバッチリ捉えていなくても「こう言や分かるだろ」というレベルでことばを扱うことに慣れている気がする。いや、ことばというのはそもそもそういうツールなのだが「便利だから」という理由だけで短絡化させるのは面白くない。今こそ恭しいことばを使いまくるべきだ。上品な口喧嘩がしたい!