カーニバルの必要

ニコニコ動画を観ていると人と話がしたくなってくる。
youtubeを観始めた当初は、映像を一人観続ける状態を顧みて「イカン」と思い人と話したくなったが、ニコニコのそれは少し違う。「話が出来ない状態が明確に続く」から、誰かと話したくなる。
消費者が、評価者としての自負と眼力を持たなければ今の大量生産・消費的文化は駄目になる。その自負と眼力の鍛錬のために議論が必要だ。しかしニコニコは言いっ放しでしか言語表現が出来ないフィールドだし、ユーザーの年齢層の問題もある。

ヘイズ・コードにしろ、ファミコンのパスワードにしろ、制限される中での可能性を見出すことに、ぼくは感動を覚える。ただ、ニコニコのように、入力したコメントが時間の経過によって映像から消え去る状態は、そういうレベルの制限とは呼べない。それは楽しみの余地としての制限ではない気がする。

ニコニコでのコミュニケーションは停止的コミュニケーションだといえるかもしれない。コメントを入力して、ユーザーが動画という表現物自体にアクセスしているように見える。だが実際のところは、ユーザーはただ一つのレベルでしか動画に関われていない。「www」にしろ「つまんね」にしろ「うp主視ね」にしろ、自分の持つ感情・理論を、動画の上を流れるコメントの奔流に乗せているだけなのだ。ユーザー自ら流れに飛び込むこと・他のユーザーに接近することは構造上許されていない。ユーザーひとりひとりがどれだけポエティックに・ヒステリックにコメントしようとも、定位置から脱することは出来ない。
つまり、どれだけ動画の再生数やコメント数が増加しても、それはカーニバルたりえない。あくまでフェスティバルなのである(カーニバル≒参加する祭り・フェスティバル≒観る祭り という区分らしい)。ネット上での「祭り」は、大概フェスティバルなのかもしれない。ブログ炎上なんかもそうなのかもしれない。批判的なコメントを打ち込むことで、攻撃者として祭りに参加するというより、コメントというショバ代を払って観覧席に座っているんではなかろうか。
参加の実感が「集団」という自覚を作って、他人に対して寛容になる兆しになりえると思うんだけれどなあ。