漫画家五十音・う

うのせけんいちも研究したいが、知識の限界からうすた京介を選択する。

ギャグで言えばシュール・不条理・ナンセンスに分類されるうすただが、彼がその元祖として扱われるのは適当でない。彼の処女作は、短編集「チクサクコール」に見られる90年の作「ザ★手ぬき君対物酢御君」であるが、彼が読切作家であった時代には、榎本俊二がモーニング誌上に、ナンセンスギャグの至上である「GOLDEN LUCKY」を連載している。ナンセンス作家であればいがらしみきおの方が格段に先駆的であるし、また80年代のうちなら、相原コージも実験的にそのような方面のギャグに挑戦している。
しかしうすたのフォロワーは多く出現し、ギャグの意味不明性――前フリにあたる部分とオチとなる部分の非連結、そのオチ自体の不条理――であるとか、明確なツッコミによるその明分化など、うすた作品に多く見られる表現は換骨奪胎的な量産が続けられている。
これは単なる「少年ジャンプ」のメディア的な実力によるのだろう。未だ市民権を確立出来ていない分野にスポットを当て、商品化するには、ある程度の組織力を要するのだ。しかしこの時、「ジャンプ」などの少年誌しか読まない読者は、年齢による必然的無知があるのだから、以前あったパイオニアの存在を発見することは出来ない。現在「マニアック」「コア」と称されて一括りにされてしまっている領域を保護する必要はここにあるのだ。古典を解さずにその作品の史的価値を評するのは愚かだと思う。

うすたの魅力は上記した表現に尽きると思うが、実際この表現の影響力というのは甚大だと思う。ツッコミに語彙を揮っていいという概念は新鮮だったであろう。それまでも、オチとして強力な現示性を持つショットを置き、続けて言葉によって更なる笑いの波を生み出す表現は多くあったが、その際の笑いにおけるクライマックスとは、後発的な言葉による笑いだった。うすたの笑いの表現は、言語的要素でありながら視覚的ショットと共存するエモーショナルなツッコミに拠るところが大きい。
このツッコミの掘り下げは、生兵法でもってそれを真似た者たちによって、ギャグマンガと漫才との境界線を曖昧にしてしまった。無論、うすたの表現が漫才に酷似はしている。彼の出世作「すごいよ! マサルさん」において、ツッコミ役としてのポジションであるキャラ・フーミンが、自分のツッコミの技能に対する不安を覚える、といったエピソードがあるように、彼のタネには漫才の要素が自覚的に取り入れられている。それゆえに、現在の連載作「ピューと吹く! ジャガー」は、長期連載によるマンネリ化、小数ページ連載によるアイデアの乱発も相まって、明らかにお笑い芸人的・テレビ的ギャグに堕してしまっている。
彼が得意とした笑いは、奇抜なキャラクターを日常で暴走させるようなギャグマンガのメインストリームに収まらず、その奇抜さに負けない珍奇なアイテムの登場や、その不可解世界に染まってゆく元来はノーマルだった人物の出現によって、新鮮な奇抜性を放ち続けた。そして多彩なツッコミによって、それを笑いという高等芸術に保ち続けた。だが卓抜なアイデアというのは、ストーリーとしての枠の強度を問うものだ。そのアイデアが収まる枠を作れなければ、作品として仕上げることすら難しい。四コママンガのようにアイデアのみで作品を構成するならまだしも、長編作には向かないだろう。また迂闊にそれを真似ようとすれば、実力が伴わない限り完成は望めない。うすた京介は、現代ギャグマンガにおいて大家というに値する人物であるが、その危うさは見逃せない。


漫才性について云々したけど、そういう笑いって、うすた以前にもギャグマンガの地平ならどこかに隠れているかもしれない。だとしたら愚かなのは俺。屈膝してお詫びします。

ひとみ

人間の瞳を見つめるのが大好きなのだが、「目を見て話を聞く」ということに意味があり過ぎて、どうにも瞳の観察自体が落ち着きを得ない。
それと、相手の「両」目を見るということは、相手の顔を見ることに近い。だって瞳の間に肌があるのだから。これが歯痒い。だから僕は瞳を観察するとき、どうしても片方の瞳を注視する。そうすっと、こっちの瞳は不恰好な向き方してんじゃねえの? こっちの右目であっちの左目を見るとき、こっちの左目は不恰好に傾いてんじゃねえの? と思う。そういうのを気にすることなく集中できるときはいいんだけれど。

人間の瞳には常に思った以上の情報がある。瞳はIDに近い。

ワープロ脳

ある行列に並んでいると、後ろにいる女性二人の会話を耳が拾う。

女A「〜〜ちゃんに訊かれたとき、私『ダンボウ』の『ボウ』間違えちゃってえ」
どうやら漢字の話らしい。
女Q「えー、どういった按配に?」
女A「ボウカンのボウ、って言っちゃったのゥ」

傍観のボウ:暖房な訳だから、暖傍。暖かい傍ら。
暴漢のボウ:暖暴。暖かな暴事。何のこっちゃ分からん。

その後も会話を聞いていると、どうやら彼女は「防寒」を思い浮かべていたらしい。それにしても暖防もどうかと思う。暖気を防いでどうすんだ。それとも「ふせぐ」と「ふさぐ」を、会話に忙殺されてコンパウンドにしてしまったゆえに、不思議に思わなかったのだろうか。暖気を塞ぐ。暖塞。息苦しい字面である。

それにしても『暖傍』は、なかなか風情がある言葉に見える。焚火とか炉辺とかを連想させる。
節句も粗方過ぎ、暖傍から離れられぬ寒さとなって参りました」みたいな。
それでは『暖暴』はどうか。冬扇、というような、暖をとり過ぎて暑くなること、利き過ぎた暖房なんかを表現出来そうである。「暖暴は風邪に勝る不養生なりぬれば、努々寒風と親しむを厭するべからず」みたいな。それにしてもキーボードばっかりで文章書いてると、手書きの際に間違った変換候補を書いてしまいがちである。機械による人間操作の魔手を感じる。チュンソフ党の陰謀かしら。

漫画家五十音・い

一色まことも、いとうみきおも、伊藤理佐井上三太も捨てがたい。それでもやっぱり、ぼくは岩明均からは逃れられないのである。
ぼくの周囲には多くの漫画狂があるので、情報には恵まれている。「寄生獣」の名前を聞くことは少なくなかった。しかしアフタヌーンに心酔し始めたのは遅く、彼の作に耽るようになったのは、結構最近のことなのだ。
不徳というか、『ヘウレーカ』と『ヒストリエ』ともに全くの未読なので論じるに足りないかもしれないが、そこんところは読んだ作品への傾注で何とかしたい。

彼の代表作と言われるのが『寄生獣』であり、現代漫画ファンに聞けば「読んでなきゃモグリ」というほどの人気を誇る作品である。
ここで問う。何故『寄生獣』はあそこまで人気が高いか? 主題はありふれている。理性を持った他種との共存、力を持ち使うことへの恐怖……。画力が高いとは言い切れぬ氏である。何か、凄まじい魅力が隠れているのではないか……。
思うに、岩明均は「完璧」なのである。彼の物語叙述は、紛れも無く完璧なのだ。
人が物語を面白く思う最大の判断基準は何か? 面白いと思う箇所が、面白いと思えるほどの分量を持っていることである。グラフィックとテキストによって瞬間的な情報と理性的な情報を同時に発し「続ける」漫画表現というのは、読む際の時間的拘束が少ないといえる。紙媒体であるから読み返しもイージーだ。
漫画表現が難しいなあと思うのは、画力と文才の調和が必要となる点である。しかしそれは逆手に取れば、表現の余地があることの証明ともなり、岩明氏は見事にそれに成功している。彼は画の描き込みのみならず、テキストの抜き・挿入、空間内への文字の置き方によって、読者に注目を促す。どこにって、死にたくなるほど陳腐な表現だが、「面白い箇所」へ。
無論、彼の演出能力も優れているのだ。『骨の音』の「お前誰だァ!」とか、『風子のいる店』全体の描写なんかは、読んでて恐くなる物語の密度を匂わせる。

あっちいったりこっちいったりする文章だが、『寄生獣』に戻ろう。『寄生獣』において評価すべきなのは、それほどの密度の記述が全十巻に渡って、全く衰えないことだ。これは梶井基次郎が長編を書いたようなもので、偉業と呼ばずして何とするか、っていう話。「面白くすべき箇所を面白く描く能力」を行使し抜くというのがいかに難しく、そうやって描かれたものがいかに素晴らしいものであるか!
いずれ論じたいと思うが、佐々木倫子などはストーリーテラーとして恐ろしく優れていて、小林まことや初期の鳥山明、それに吉田秋生なんかには「漫画の上手さ」を感じる。岩明氏は画は上手くないかも知らんが、物語を綴る者・漫画を描く者としての技能をこれでもかというほど持っている。でなきゃ『風子のいる店』でストイックな人間関係を描き切りながら、『寄生獣』において、あそこまでのドラマを連続させ、『七夕の国』で主人公のオプティミスト振りを一貫させるなんて芸当は出来やしないのだ! 結論、岩明均はスゴイ!

ジャンプスクエア

小畑の絵が田島昭宇に似すぎてて笑うっきゃない。森田まさのりの原作とは噛み合うべくも無いって分かってただろうにね。虚しいエポックメイキングですね。
とにかく遠藤達哉が連載を持ったことがうれしくてしょうがない。あの人はあんなにカラーがきれいだったのかと心底驚いた。和月はどうでもいいから、荒木とフジリューの出来に期待しっぱなし。遠藤・荒木・フジリューの三人を観られればいいか、と来月も見る気満々である。雑誌としては価値は無かろうと思うので買ってたまるか。

嫌悪の過程

言いたいことを言えない事ほど、苦しい事は無い。どれだけことばを飼い馴らしても、その場でことばが出せない苦しみは途轍もない。
T.Nのヤツは、僕が持つことばへの矜持を知っているせいで、からかいを忘れない。自分でも隠したくなるほどカオティックに湧き出る後悔を見逃さず、その感情に拍車をかけて、僕が押し殺そうとする横から邪魔ばかりするのである。無視しようとしても、意識の表層に感情を押し出してきて、感情から汚水が染み出し、あっという間に汚わいと悪臭が広がる。そこまで来れば自然と自己嫌悪は始まっちまい、情緒は揺らぐのである。

感情上の事件を隠したり明るみに出したり、T.Nは、僕が最も衝撃を受けるアピールのかたちを知っていて、そういう努力をいつもしている。面倒だが愛らしい。

漫画家五十音・あ

新井英樹という漫画家がいる。
彼の演出能力というのは、ぼくからしてみたらモンスターである。既視感を烈しく煽り立てる大衆の描写、性や暴力への(過剰なまでの)思い切りの良さ、情報過多な説明と、描画による「説明以上の説明」。何よりも、解釈集団としての読者に対する挑発意識と、それを制御し得る理性と手腕! 漫画的スキル以前に、彼の創作者としてのエナジーに、ぼくは常に圧倒されてしまう。
大自然の荘厳な風景よりも、人間にこそ可能性を見つける」と語る新井氏は、人間の感情を、極めて理性的な因果と、絶妙な台詞回しと描画で表現し切る。そこにデザインのセンスや言語感覚のヒケラカシ、それによる自己顕示などという要素は存在せず、ただ物語上重要極まる事件や発言、それらの真摯な描写が存在する。
だからこそ彼は群像劇を身上とし、高密度のドラマを並行して紡ぐことで、読み手に感動を整理させる時間も与えぬまま、ショッキングなストーリーを進める事に成功している。しかしながら、この手法は、不慣れな読者にとっては混乱を生む要因となっているし、特異な絵柄と共に、読者のための間口を狭める結果となっていることは否定しない。

新井氏は、人物を狂的なまでの書き込みでもって構築するが、恐るべきは、因果によって人物描写に説得力を持たせているにも拘らず、しばしば主人公に天分があるという点である。未だ定義が成されない「天才」という、甘美で、支配的に魅力的で、曖昧なものを、理性的な表現で構築することが如何に恐ろしいか?
ザ・ワールド・イズ・マイン」のモン、「Sugar」「Rin」の凛、「キーチ!!」の輝一。彼らは理屈で説明できない「何か」を持ち、周囲の人間に影響していく。これは多くの漫画に見られる展開ではあるが、新井作品の恐ろしいところは、その天才を変容させてしまうところであり、ややもすると曖昧になり、ともすれば説明不足になりがちな転換の契機を、極上の筆致で完成させる偉業は、評価せずにはいられないだろう。

新井氏の作品を読んでいると、彼は漫画のイデアを視たのではないかという心地がするほどに、ストーリーと演出のレベルを高く保ち続けていることを認識する。彼のストーリーは異常なまでに煽情的であり、彼の演出にはあまりに強い馬力がある。高校一年のときのコンビニで、だったと思う。ビッグコミックスペリオール誌上における「キーチ!!」第一回との邂逅。漫画ファンとしての重要なメルクマールだ。