クロノロジックアクション

ぼくが手塚の『火の鳥』を初めて読んだのは小2の時だった。家族でジャスコに行き、母親と共に書店へ行った時だった。ぼくは当時から本が好きだったので、経済力が全くと言っていいほど無い当時であるから、まさに書店は壮大な場所だった。
母は偶然『火の鳥』の文庫を見つけた。そしてぼくに「お母さんが若い頃に読んで、とんでもなく感動したのよ」と言った。だから今読め、とは言われなかったが、ぼくはすぐ読んだ。親からマンガを薦められたのは初めてだったからだ。そしてビビッた。念のために言っておくと、買ったのは『黎明編』と『未来編』である。『黎明編』はまだ物語として捉えられたものの、『未来編』に至っては滅茶苦茶ビビッた。
マサトが不死の体となり自分の胸を撃ち抜くシーン、時が経ち彼の体が風化していく描写、恐ろしいったらなかった。


あれから時が経ち、世の中には「トラウマ作品」という言葉が伝播した。ショッキングな内容のために、それに触れるとダウナーな気分になる、長くそれを引きずる、というぐらいの意味合いの言葉だ。ぼくはあれから多くの漫画を読んできたが、「トラウマ作品」を読んだ、という気持ちを、もう新しく持つことが出来ない。スレてしまっているんだろう。
批評は、多くの作品に接さなければ、出来ない。マンガを全く読んだことがなければ、マンガを批評することは出来ない。経験と比較させなければ、一作品にどのような個性や価値があるか分からないのだ。
それは自分の「読み」に多くの基準を持つことだ。その基準というのは、畢竟防護壁だ。比較し、刺激を直接受け止めないことで、ぼくたちは強いチョップを受けまいと、無意識にしてしまう。それはやはり切ない。それは、わざわざ感動を軽減することなのだ。
だから全ての作品は麻薬なのだ。無知な時期=無防備な時期に摂取したハード・パンチ、それによる感動をもう一度得たい、と思ってぼくたちは食指を伸ばす。けれどそうやっているうち、ぼくたちは免疫をつけていく。衝撃を理性的に解釈できるようになっていく。もしかしたら、無防備な時期に出会っていれば最高の原体験となったかもしれないものに、並の感動しか覚えられなくなっていく。だから、一度思いが堰を切れば、面白いものが欲しくてしょうがなくなる。

ルパンが赤外線を掻い潜るように、自分のコードに触れないで、自分の方寸を貫くような何かをいつも欲している。かつて手塚が、新井英樹が、梶井が、ナンバーガールが、ビョークが、古井由吉が、安永知澄がそうだったように、そういうものがいつだって欲しい。