えいがみておもいつき

『処女監禁』77年

内気な青年が、向かいのアパートの女性に惚れ込み、彼女の観察を日課としている。彼女を想っての自慰に日々耽り、彼女の全裸を克明に写し描く彼であったが、どうしても想いを打ち明けることは出来ない。やや狂的な慕情は序盤でこそコミカルに描かれるが、女性が部屋に男を連れ込んでからは、彼の感情は暴走を始める……という粗筋。

性倒錯者の描写っていうのは難しい。特にここらへんの年代は怪奇色が強いから、ややもすると単なる怪談に堕してしまう恐れがあるのだ。翻って現在になってしまうと、小児性愛者の犯罪が増えちゃったもんだから、人間皆、擦れてきている。直接個人に被害を加えないヘンタイの犯罪はさながら笑い話のように(当事者はこの常じゃないだろうが)、変態による弱者への直接的な犯罪は殊に陰惨な風に報道される。
自分がある種の倒錯者であるから言えることだが、パブリック・イメージとしての性倒錯者を描写しても何にも面白くない。報道は模倣犯を出すまいと(一応努力して)画一的で単純な性犯罪者像を形成しているのだ。その定型が醜ければ醜いほど犯罪へのイメージも嫌悪さるべきものとなる訳だ。
話が逸れた。つまり報道とか風説から性倒錯者像を描き出しても、伝聞情報を基にデッサンするように不確かで、「その情報自体に依拠した」オリジナリティに欠ける代物になってしまうだろうということだ。いわゆるマイノリティ、いわゆるアングラ、そういうモノはメディアを通してしまえば画一化されてしまうのである。本当にそういうものを描きたいなら、実物にじかに接触し、密な付き合いをして、その個体を利用してフロッタージュするしかないだろう。

震える舌』80年

娘が破傷風となった夫婦の闘病の物語。演出がホラーそのもの。娘の吐血のシーンなんていうのは、ジュンスイにヌクヌクピースフルにお育ちになった方にはトラウマもの。宇野重吉を初めて観た時、両親が寺尾聡を指して「似てる」というのが物凄く納得出来た。

チェロとシンセ一本ずつという音楽体系が成す、シンプルで重厚なアトモスフィアがたまらない。やっぱり独奏においてはクラシック音楽はずば抜け過ぎているし、これから見識を広めたいと思う。いや、聴いたのはかの有名なバッハのチェロ無伴奏組曲なんですけど。
怪奇演出に隠れがちではあるが、家族が病臥するということの恐ろしさを執拗に描いている。患者の衰弱に同調するような周囲の疲弊、心身の疲弊から生まれる様々な不和、ダウナーが陰鬱を生み出し、その陰鬱に響くちょっとした喜びの甘美さ―― 十朱幸代が、昏睡する娘の腕を取り「火傷の痕、消えてる……。良かった……年頃になってから、恨まれなくって済むわあ」と安堵して、「この子が治ったら三人で湖に行こう」と渡瀬恒彦に語りかけるシーンで涙ぐんでしまった。
それにしても渡瀬は兄とは比べ物にならないほど良い役者である。生活の倦怠の中で見せる妻への愛情・娘に対する厳しい態度、感染症への恐怖、憔悴などなど、エネルギーの消費と回復も感情の推移も余すことなく表現していた。観終わってからゾッとした。あと終盤で初めて見せた涙に泣いた。


内容に触れたり、観て思いついたことが主だったりとマチマチなのは仕様です。