きほんてきがいねん

CDも文庫も新書も漫画もDVDも、本当はサラピンのものを購入したいのだけれど、いかんせん金が無く、いかんせん働く意欲と行動力が無い。そんな身の上で何を言っても、説得力なんてゼロシステムなのだが、シーンに金を落とす、というのはとっても重要である。
いいものが生まれるには活動領域の設定が不可欠で、ぼくたちが嗜好品を買い楽しむということは、同時にその領域の維持費を払っていることにもなる。何度言っても何の贖いになるわけでもないが、そう思っているくせに中々金を落とそうとしないぼくは、消費者としてクズの部類にある。それでも、表現者と受け取り手(買い手)の間に陣取って、表現媒体をわざわざ高値で取引したり、著作権の管理者を名乗り出て金を搾取しようとする輩は滅却されるべきだと思う。

ぼくはものを評価出来るようになりたい。動機はこういうことである。善い物を善いとして、それらが文化活動領域の中でサヴァイヴしていく助けになりたいと思うのだ。
こういうところ、行動自体に美学を求めていてナルシスティックであり、自分のような容貌・人格・能力の分際でナルシスティックなことをしていると自覚しただけで下痢になりそうだが、腸ベリーバッドになるのを恐れて、善い創作物が対価を得ずに埋もれていくことを許しちゃならない。
「金を落とす」というのも、どこか我々受け取り手が上に立っている錯覚を持てて、倣岸な感じが出ててイイ。

蛇足だが、そういう「善い物」には、人間は心のどこかを従属させても良いと思う。それが妄信とか信仰、果ては狂信に至らなければね。だからぼくは山岡士郎よりも、どちらかというと雄山に近い考え、ということになるんでしょうね。味も分からん豚や猿ども、なんて人のことを呼べるようになるのか、いずれ。嫌だなあ。