閉塞という解放

先日、帰宅のために使う路線がストップした。強風のためである。その線自体は四時間ばかり停まっていて、ぼくも車両に乗り込んでから二時間以上は坐して待つ羽目になった。ぼくの最寄り駅はその線しか通っていないので、迂回乗車なんかではかなり金がかかってしまうのだ。
電車というのは色んな人間を集めるし、数時間ストップという異常な時間は色んな反応を、人にさせる。
耐え切れないで遊びまわる男児と叱る母親とか、それとは逆に大人しくしている女児とその振る舞いを褒めてジュースを買い与えてやる母親、見ず知らずの人に「このぐらいの風だったら走れそうだけどねえ」と話しかけるおっさん。目を合わせず(俺に話しかけてるわけじゃないからリターンは返さないぞ)としているおっさん。
別に、何が正しいとか、何が邪とかではない空間だった。


写実が行き過ぎるということが、もはや不自然な描写に達するということであるように、ぼくたちが味わった極度の閉塞は、きっと疲れによる無防備を誘って精神をオープンにさせたのだろう。「環境」は、環境自体が閉じれば閉じるほど人間に胸襟をひらかせて、面白い。
ずっと同じ車両にいる乗客たちと、無性に会話がしたくならされた。共有できる気がしたし、いっしょに逃避できる気がした。結局誰とも喋れなかったのだけど、人と空間を作った実感を得たのはとても久しぶりだった。