グッド・ウィドゥム

マンガのリズムとは。
マンガ好きで一応知られるアソーさんがいつだか「日本人は幼い頃からマンガを読むから、マンガの文法を、誰に教えられるでもなく知っている」と仰っていた。かの人がどこまでマンガに精通しているか、ぼくはまだいまいち量れていないが、この言に対しては全面的に同意する。
今の時代、「集中線」という名前を知らなくても集中線がどういう役割をしているか読者には分かる。手書き文字がセリフか擬音かという区別もつく。ベタ塗りの背景とかベタフラがどういう効果かも分かる。あまり無意識に分かるようになってくるとそれが当然になり、世代が上にあがってくるにつれ「無意識にしか分かっていない」世代が創作者になると、様々な演出を統御できなくなるかもしれないが、それはまた別の機会に論じたい。
とにかく、マンガのリズムもまた、そういった無意識に学習した文法によって作られていて、未成熟な読者でもそれを無意識に知覚している。

レオン・サーメリアンは「すべての物語は、場面〈シーン〉と要約〈サマリー〉でしか構成されない。全てが場面ならば戯曲になり、全てが要約ならば梗概となる」と記した。物語とは、細かな演出を除いてしまえば、瞬間瞬間の拡大と縮小、省略でしかない。マンガはグラフィックとネームを同時に紙に載せるわけだから、二つの次元から同時にアプローチしてそれらを形成しなければならない。中には漫符を使うことでネームを撤廃する手法もあるが、ネームに馴れきったぼくたちはその漫符すら「セリフの代用」と捉えてしまう。
そこで生まれるマンガのリズムとは。多次元からのアプローチは困難ではあるが、その分ハバもめちゃくちゃあると思う。一つのコマで何秒経たせられるか、作者はそれを意識できるのだ。出来ない人物にも、許されてはいる。セリフを詰め込むことで長引かせたり、フォントを不自然に縮めて早口の表現にしたり……。
何より「マンガの武器だ」と思うのは、活動の中に完璧な静止を挿入できるところだ。映像作品ではそうもいかない。映像作品が、本と比べ「疲れる」と思われがちなのは、それぞれが「時間の限界」を持たねばならないところだ。上映時間120分とか。
マンガは、物語が一つ一つのコマを繋ぎ合わせた数珠のような形をしながら、読みの感覚上、流動的に映る。ただしコマの一つ一つはまごうかたなき「絵」であるから、作品中の時間が止まったかのような静止画を描くとき、流動から静止へと「完璧な滑らかさで」シフトすることができるのだ。

映像作品での静止は、流動的な部分が確かに流動的過ぎて滑らかにならない。際立った演出になりすぎる。それを無視できるだけで、マンガの「間」とかリズムには可能性を感じる。

間がすごい、と思うのは、つげ兄弟、林静一よしながふみなど。あと「ビーム」作家には多い気がする。