打倒「へー、ゴダール好きなんだ。そこらへん観てりゃシネフィル名乗れると思ってんだろ」派

難解な作品というのがあって、芸術性を高めるために梗概を意味不明なものにしたり、オチが唐突過ぎたりする訳である。
このテの作品群の真の難しさは、肯定寄りの人間は「分かった面しやがって」という蔑視をされるし、否定寄りの人間もまた「理解しようともしねえくせに」という蔑視をされるところだ。

ファンとかレビュアー(と言えばいいのか? レビューしたがりさんを)は、ネット上では一種の共同体を作りやすい。例え「アンチと信者」という、ティピカルな論争を繰り広げる関係にしても、ひとところに集まるものだ。匿名性にあかせた忌憚無き意見が飛び交うわけだが、これはオフラインにおいても、もっと潜在的な形で現れる。
ぼくが「やっぱオリヴェイラの映画はカッチョイイよね。あの殺人的長回しなんか、映画における魔球だよ」とか言うと「はっはー、うん、まあねえー」みたいなリアクションを取られるように。

特定のイメージをファンに付帯させる創作者・創作物。解釈が難しい存在である。そういう対象を理性的に批評していくことに、最近面白みを覚えている。

閉塞という解放

先日、帰宅のために使う路線がストップした。強風のためである。その線自体は四時間ばかり停まっていて、ぼくも車両に乗り込んでから二時間以上は坐して待つ羽目になった。ぼくの最寄り駅はその線しか通っていないので、迂回乗車なんかではかなり金がかかってしまうのだ。
電車というのは色んな人間を集めるし、数時間ストップという異常な時間は色んな反応を、人にさせる。
耐え切れないで遊びまわる男児と叱る母親とか、それとは逆に大人しくしている女児とその振る舞いを褒めてジュースを買い与えてやる母親、見ず知らずの人に「このぐらいの風だったら走れそうだけどねえ」と話しかけるおっさん。目を合わせず(俺に話しかけてるわけじゃないからリターンは返さないぞ)としているおっさん。
別に、何が正しいとか、何が邪とかではない空間だった。


写実が行き過ぎるということが、もはや不自然な描写に達するということであるように、ぼくたちが味わった極度の閉塞は、きっと疲れによる無防備を誘って精神をオープンにさせたのだろう。「環境」は、環境自体が閉じれば閉じるほど人間に胸襟をひらかせて、面白い。
ずっと同じ車両にいる乗客たちと、無性に会話がしたくならされた。共有できる気がしたし、いっしょに逃避できる気がした。結局誰とも喋れなかったのだけど、人と空間を作った実感を得たのはとても久しぶりだった。

ユーミング

『時のないホテル』マジ名盤。

ユーミンのアルバムで好きなのは、ファーストとセカンド『ひこうき雲』と『MISSLIM』だけだったが、『時のないホテル』は、ぼくがあんまり好かない「松任谷然」としたユーミンの要素がうまいほうに働いているようで、イイ。なんつっても詩がいい。
ファースト、セカンドは、細野晴臣鈴木茂が参加しているだけあってとてもカッチョイイフォークになっていてステキなのだ。歌声もウィスパー・ヴォイス的で、変に広げた風がなく良い。

あの粉

すんげえ量の鼻水が出ていた。マジで? 花粉症か俺? と危ぶんでいたがただの鼻風邪だったらしい。本当によかった。
なんか今年はキルスティン・ダンスト、じゃないや、暖冬なようで花粉もえらいことになるらしい。今年も出ないといいなあ。

花粉を可視化するゴーグルかなんかが実用化されたら役に立つだろうか。都心の歩行者たちがみんな目に見えるパウダーを振り払いながら目的地に向かう様を想像してみる。不可視だった恐怖の可視化。近来稀に見るおせっかいになるだろう。

パスワード復興委員会

ニコニコにおいて荒らしが蔓延するのは、やはりコメントの即効性の高さが要因だと思う。ヴィジュアルとしてすぐに反映されるし現示性が強い。
下部リンクにあるAirReaderさんのところで「お手軽罵倒語はキケンだ」という文章を拝見したが、即効性がよりどころになっている場では、手軽であれば手軽であるほど盲目的に使われてしまう。

やっぱり情報が「速くなる」ことで生まれる悪いことというのはある。情報は流動的になるほど、認識や理解を難しくするんじゃないか。紙をめくって何かを知ったり、CDを入れ替えて音楽を聴いたりすることは、テレビ・ニュースを見たり、専用ソフトで音楽ファイルをダウンロードしたりすることよりも、非効率的だからこそ重要だと思う。非効率的だから労力が要って、労力が要るから濃いものを得られるはずだ。

ライブを観たり映画館に行ったり。ぼくがこういうことを好きなのは、制限されるからなんだなあ。数千円出して、保存もリピートもできないものを買うのは非効率的かもしれないけど、そこでは「それだけを気にすればいい」状態が作ることが出来る。そうやって得る情報は、なんかもう、すごい。

クロノロジックアクション

ぼくが手塚の『火の鳥』を初めて読んだのは小2の時だった。家族でジャスコに行き、母親と共に書店へ行った時だった。ぼくは当時から本が好きだったので、経済力が全くと言っていいほど無い当時であるから、まさに書店は壮大な場所だった。
母は偶然『火の鳥』の文庫を見つけた。そしてぼくに「お母さんが若い頃に読んで、とんでもなく感動したのよ」と言った。だから今読め、とは言われなかったが、ぼくはすぐ読んだ。親からマンガを薦められたのは初めてだったからだ。そしてビビッた。念のために言っておくと、買ったのは『黎明編』と『未来編』である。『黎明編』はまだ物語として捉えられたものの、『未来編』に至っては滅茶苦茶ビビッた。
マサトが不死の体となり自分の胸を撃ち抜くシーン、時が経ち彼の体が風化していく描写、恐ろしいったらなかった。


あれから時が経ち、世の中には「トラウマ作品」という言葉が伝播した。ショッキングな内容のために、それに触れるとダウナーな気分になる、長くそれを引きずる、というぐらいの意味合いの言葉だ。ぼくはあれから多くの漫画を読んできたが、「トラウマ作品」を読んだ、という気持ちを、もう新しく持つことが出来ない。スレてしまっているんだろう。
批評は、多くの作品に接さなければ、出来ない。マンガを全く読んだことがなければ、マンガを批評することは出来ない。経験と比較させなければ、一作品にどのような個性や価値があるか分からないのだ。
それは自分の「読み」に多くの基準を持つことだ。その基準というのは、畢竟防護壁だ。比較し、刺激を直接受け止めないことで、ぼくたちは強いチョップを受けまいと、無意識にしてしまう。それはやはり切ない。それは、わざわざ感動を軽減することなのだ。
だから全ての作品は麻薬なのだ。無知な時期=無防備な時期に摂取したハード・パンチ、それによる感動をもう一度得たい、と思ってぼくたちは食指を伸ばす。けれどそうやっているうち、ぼくたちは免疫をつけていく。衝撃を理性的に解釈できるようになっていく。もしかしたら、無防備な時期に出会っていれば最高の原体験となったかもしれないものに、並の感動しか覚えられなくなっていく。だから、一度思いが堰を切れば、面白いものが欲しくてしょうがなくなる。

ルパンが赤外線を掻い潜るように、自分のコードに触れないで、自分の方寸を貫くような何かをいつも欲している。かつて手塚が、新井英樹が、梶井が、ナンバーガールが、ビョークが、古井由吉が、安永知澄がそうだったように、そういうものがいつだって欲しい。